鈴木彩子 代プロ時代のメッセージ

  • 代官山プロダクション所属時代に公式サイトに掲載されたメッセージです。
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2000年5月21日 デビュー10周年スペシャルページより

2000年5月21日でデビュー10周年を迎えました。
10年も唄ったという実感はまだ沸いてないのですが、
ただ ただ 感謝の気持ちでいっぱいです。
デビュー曲を作ってくれた高見沢さん(アルフィー)のあの曲、
『独立戦争』からすべてはスタートしました。
大きな愛、人類愛、そして身近でもある愛、なんと言葉に
して良いか今でも答えにくいほど、大きなテーマのある曲でした。
その意味をほとんど理解も出来ずにデビューした18才の私。
そして、全国ツアー。お客さんが4人だった青森、7人だった札幌、
他も15人とか東京でやっと50人。それでも年に2回やり続け、
あの時は辛さしか感じず、ファン(仲間)の大切さやライブの
ものすごい感動を体感することが出来ず、それより、関係者やレコード会社の
人に愛想笑いをしなくてはいけない、頭を下げなくてはいけない、
それはなぜだ!?と、反発や疑問の方が大きかった、、、のです。
それが、ジワジワっとわかってくるものなんですね。
『独立戦争』の歌詞のすごさ、ファン(仲間)の大切さ、唄、音楽の
偉大さ崇高さ。そうか!!ライブとは、唄とは、『魂』なんだ!と。
その後、上田知華さん作曲の『ひとりぼっちの意味』という曲を唄うように
なり、すべては変わりました。あの曲はいじめが原因で自殺してしまった娘の
実際にニュースになった事件を唄っているのですが、私もそのニュースを
たまたま見ていて、家でゾッとして・・・電車のレールに横たわって
死んだという悲劇に「ええ?????」と思って気になっていたんです。
(その頃の私はまだガキでウオー!とか可哀想に・・ぐらいしか思えない人間でした。
だからといって今は何か出来るのかと言われたらきっと唄いつづけること
ぐらいしか出来ませんが・・)それが突然その事をテーマにした唄を
上田さんが作ってきたのです!はじめて聴いて泣きました。涙がいっぱい
出ました。そして、 CDにも入れ、ファン(仲間)の人にコーラスを
協力してもらいました。ライブでも唄いました。何度も泣きました。
なんか 同情じゃないんです。悔しいのです。
『ひとりぼっちの意味』に出会い、私は大きく変わり、学び、知りました。
いじめにあってる、いじめてしまった事がある、そんな人達からの
手紙がたくさん届きました。
私のライブは怒りや悲しみをぶつける場となり、全生命を賭けて唄ってやる!
って思いはじめました。音楽で世界をかえてみせる!と本気で思っていました。
ライブ前に祈るのです。今日のライブで誰かひとりでも、生きる希望や勇気、
なんでもいいから何かをつかんで帰ってくれますように・・・・。と
それからずっとそんな活動を続けていたのですが、
やってきたのです。『挫折』が・・・。原因はわからないのですが
ある日、「音楽で世界は変えられない?私の唄なんかじゃ??」という
壁にぶちあたり、私はただの偽善者??いい事をしてるって自己満足してるんじゃ
ないのか?そんな風に思いはじめ、無気力になってゆくのです。
現実に押しつぶされました。壁は分厚かった。
そんな私を支えてくれたのが、事務所のスタッフ。そしてあたたかなファン(仲間)。
誰も私を責めようとはしなかった。プロデューサーの新田社長に
「私はもうみんなに何も与えてあげれるものがありません」
「伝えたいことがないんです」と言って敗北宣言すると、新田社長は落ち着いた
表情で、
「じゃあ それを詞にすればいいじゃないか。希望を見失ったなら、
それもサイコじゃないか、本当の事だけ唄うんだろ?だったらそのまま詞にすれば!?」
と言って下さったのです。それで出来たのが『9-nine-』というアルバムです。
新田社長はなんてすばらしい人なんだろうか・・・・・・。
普通だったら(?)、「客は強いサイコを求めてるんだからもっと前向きな詞にしろ」
とでも言いそうなのに。救われました。
そして、あの大事故が私を蘇えらせたのです。あの経験が私をもう一度目覚めさせて
くれたんです。もう、唄えないかと思い、病室で新田社長に「もう 片足の神経が
麻痺してますし、顎も開かないので唄は辞めるしかないです」と言っていた私が
リハビリと神様がくれた奇跡のおかげで、ここまで!復活できるところまで来れたのです。
足が3ヶ月目に動くようになり、顎は厳しいドクターのリハビリのおかげで
開くようになりました。ここまで、来れたのだからあとは何も考えず、突き進むしか
ないでしょう。
いろんな事があった10年ですが、関係者の人達にも心から頭を下げることが出来るように
なり、『ありがとう』を言える自分になっていました。
10周年は祝いの日ではなく、感謝の日だと思っています。
感謝してます。みなさん、仲間達、いつも支えてくれてたね。ライブであたたかな拍手を
贈ってくれたね。「サイコ!」って声をかけてくれたね。ありがとう。
スタッフのみなさんにも多大なる迷惑をかけたにもかかわらず、ずっと支えられてきました。
そして、新田社長が「おまえが歩けなくなったら俺が手を引っ張る」と言って
見捨てずにここまで育ててくださいました。心から感謝しています。

「2000年5月21日当日の私」

5/21

21日の12時になる20秒前にホームページを
スペシャルにしました。ドキドキしました。
20日の昼からずっとひとりでつくっていて、
(原始的なやり方にこだわってるから大変なのよ)
夜 事務所で写真を取り込んだりして、
ぜったい間に合わせなきゃ!とピーピーさわぎ
ながらやって、2分前ぐらいから震えてきて(笑)
20秒前に入れて確認で自分のページを見たら
バッチリだったので、ヤッター!!!!とか言って
FCの長山ちゃんとコンピュータのおりとさんと
拍手していたら、12時になったのだ!と
勘違いした嘉門さんがフライングで飛び込んで来て
シャンパンのコックをパーンと開けてしまったので
ありました。
みんな倉庫みたいなところに隠れていたらしく
私を驚かせようとして息をひそめていたらしいのです。
嘉門さんの『あれ?早かった?』の言い方がおかしく
て あと、中腰の体制が・・、今でも思い出して笑いた
くなります。(なんであのお方はあんなにおもしろいの)
その後事務所でささやかな10周年のお祝いをしていた
だき、感激しました。

夕方ひとりで品川埠頭に行きました。
あの、事故現場を探しに。
そして、海と空と神さまにお祈りとお礼をしてきました。
曇り空、すき間から見える青い空、ぼんやりした夕日。
濁った海。たくさんのコンテナ、大型トラック。
信号は変わるけれど誰も通らない大きな交差点。
静かでした。埠頭も私の心も。
2時間ぐらいぼんやりして帰りました。

10周年を迎えた私は今 最高に幸せです。

「10年」

デビューする前の私は、中学も高校も女子高で
男みたいに髪を短くして やんちゃで、いつも校長室に
呼ばれてました。土下座したり、親が呼ばれたり、反省文を
書かせられたり、監禁されたり、してました(笑)
中学3年のときにはじめていったライブハウス。
アマチュアバンドのRADIO SHOPという人たちが唄ってました。
未知の世界。厳しい部活や学校とは違うもっと自由な世界。
こんなところがあったのか!すごい衝撃と最高の解放感を
得ました。そして、そのバンドが唄ってたVOICEという曲が
私の人生をものすごい角度で変えたのです。ガーン!!!!!
私の居場所を見つけた。進むべき道が見えた。
こうしちゃいられない、すぐ東京に行かなければ!(宮城出身)
高校を中退して、中野のほうにアパートを借りて、ひとりぐらしを
はじめました。反対する親に何度も何度もなぐられ、学校でも
まずは部活の先生に蹴られ、ビンタされ、ののしられ、(全然慣れてた)
(今は感謝してる。根性をたたきこまれたから)
職員会議にもなり、(部活で特待生だったのでいろいろと問題があった)
(特待生といっても準で入学金免除程度)
とにかく向い風しか吹いてこなかったわけなんですが、もう私の目には
『夢』しか映ってなかった・・・。丁度うちが貧乏で、授業料を滞納してたり
なんだりということもあり、私立のこの学校じゃ通うのは無理です
というのを理由に勢いで辞めてきた。
親は悩み、16才の子をひとりで東京にやるなんて・・って
不安も大きかっただろうに、最後には私を信じてくれて、錦を飾って
帰ってこい!と涙ながらに送りだしてくれた。
まだ、錦を飾ってないぜ。私の中では。
貧乏で苦しんだ母に家イッコ建ててあげる!って言ってたんだもの。
あれから、12年だな。・・・・・・。
2年後私の情熱とパワーと運の強さでデビューした!
それが1990年5月21日
本当に情熱ですよ。みなさん。そして思い描くこと、なりたい自分を!
そのための努力をおしまないこと。エネルギーを発散してると、
不思議に人が集まってくる、ラッキーが舞い込んでくる。

『未来は自分で開け 他人の手を借りようとするな!
いつかつかめるはずさ あきらめてちゃ何も見えない!』


・・・・・・・・・・・・・これが 私の人生を変えたvoiceのワンフレーズ。
・・・・・・・・・・・・・私もカバーしてる。ライブでも必ず唄ってる。
デビュー10周年とは何度も言ったとおり、祝いではなく感謝の日です。
いままで助けてくれたすべての存在に感謝してます。
・・・これからの私。
もう、行くところまで行くしかないでしょう!
16の時のように、ただ ただ前を見て息が途絶えるまで走り抜くしかないでしょう。
ゴールなんて見えない。見えなくてもいい。
今日、殺されても悔いがないような生き方!
悩んでるヒマもない!落ち込んでるヒマもない!その分だけ走れ!って
感じでしょうか。行動するしかないですね。たとえ、もしそれが間違っていたと
しても不安や怯えは敵。
今日を生きる。
確かに、疲れます。特に事故の後遺症などがつらくなったりします。
悔しくて、寂しくて泣く時だってあります。
でも今は疲れても、泣きながらでも走る時だと思っています。
10周年だからというより、せっかく生き延びたのだから、また唄えるんだから、
そんな気持ちの方が大きいです。
みんな、遅れずに付いて来てよ。なんなら追いこしてってくれ。
どんどん前に進もうぜ。

「事故のことを知らない人へ」

交通事故の事をしらなかったひとへ。
1998年の12/15に大事故をやらかしました。
運転ミスで、トレーラーに激突。私の車を鉄の塊が
トレーラーの先端がズッポリ貫通しました。
後部席まで、突き刺さッってた。
運転席と助手席の間を。車は一発廃車で、私は30分かかって
レスキュー隊のみなさんに助け出されました。
かけつけた救急車の医者は『もう 死んでるな』
って思ったそうです。
目がさめると全身が棒のようで、とにかく腕がいたくて
看護婦さんを何度も呼んでいたらしいです。
6時間の手術がお行なわれたあとに、目がさめたんです。
救命救急センター。なんかもう なにがなんだかわかりませんでした。
社長や藤沢部長や藤本課長の顔が見えて。「すいません・・・」
しか言えなかった。顔は腫れ上がり血だらけで死人みたいだったそうです。
左顔面の骨が粉砕 それと麻痺、首に大きな傷、右肺がつぶれ、右足に大きな傷と
神経の麻痺、左腕骨折。などでした。
まだ 治ってないところもあるけど。ライブはやれますよ。
入院中は唄をやめるしかないと覚悟を決めていましたが、
リハビリリハビリリハビリ・・・・・でよくなりました。
普通に歩けるようになったのが奇跡です。
あと2mmぐらいずれてたら、即死だったそうです。
大変おおぜいの方に御迷惑をおかけしました。
ツアーを全部中止にしてしまいました。
ごめんなさい。
でもいろいろと考えさせられる出来ごとであったのは確かです。
どちらにしても、音楽の持つ力を信じきれなくなっていた時だったので、
神様がブレーキをかけたのだと思います。
そして、今のサイコは音楽の力、奇跡を心から信じています。
すべて、やりなおします。

代プロ退社時のメッセージ

みなさんには本当にただただ謝ることしか出来ないのですが、私は代官山プロと DAIPRO-Xを離れることにしました。メジャー音楽界を離れます。理由は一言で言 えば、『限界に達した』ということでしょうか。交通事故からの復活で、ここか ら先は全力で走れるところまで走る。常に全力疾走する!と決めたのですが、早 くも力尽きてしまいました。私がデビューしたころと今の音楽業界は随分変わっ てしまいました。全てがお金なんですね。オンエアもタイアップも何もかも。お 金を何億かければイヤでもそのアーティストは売れ、お金をかけなければいい音 楽をやっていても売れない。そんな業界の裏側を知りすぎてしまいました。出会 う人、出会う人全てが、金の猛者に見えてしまいます。
FANのみんながZ団としてすごく私の応援をしてくれて、有線やラジオにリクエス トしてくれていたのは知ってます。とても嬉しかったし、それは金じゃなく、 FANの仲間一人一人の力でのオンエアだということに感動しました。本当にあり がとうございました。もっと私が歯をくいしばってこの世界で唄い続け、みんな と力を結集させ、結果を出さなくてはならなかったのに…。私の方が耐えきれな くなってしまいました。ごめんなさい。 私の音楽の世界を汚したくないし、みんなとの歴史や絆を汚したくないので商業 主義からは一歩離れ、地味にそれでも純粋に音楽をやり直したいと思います。
ただ誤解しないでほしいのは、プロデューサーの新田さんはじめ、代プロのみな さんは、私を利用するどころか、ずっと守ってくれて私の音楽をも大切にしてく れていました。代プロのアーティストだったことがせめてもの救いです。感謝し ています。本当に代官山プロのアーティストであったことは幸せでした。事務所 のみなさんにも、今回の私の決断で大きな大きな迷惑をかけてしまいました。申 しわけありません。
ずっと一緒に歩いてきてくれたみんな、みんなのことはずっとずっと忘れませ ん。私が10年唄い続けてきて残せた唯一の宝物です。本当にありがとうございま した。この先また会えることを楽しみにしています。ありがとうございました。

サイコ